育てたい「生きる力」

聖愛ではその「基礎」を次のように考え、保育の目標としています。

子どもの「自立」

もう少し具体的に言うと、「他人の意見に左右されることなく、しっかりと自分で考え判断し、自ら行動し、そして自らの行動に責任を取れる」ことです。褒められるからゴミを拾う、叱られるから悪いことはしない、ではなく、自分で今、どうするべきか考え、信念に基づいて行動できる子を育てます。

そのためには、子どもの行動を頭ごなしに叱ったり、おだてて大人の望む方向に誘導したりということをせず、まずは、受け止め、その理由を聞いた上で、望ましい方向を一緒に考えるというスタンスを取るようにしています。「何度言ったらわかるの!」と怒れば、子どもの問題行動は「その場」では収まりますが、怒る人がいなくなればまた起こすでしょう。また、「怒鳴れば相手は言うとおりになる」ということを学習してしまい、友達との関わりの中でそのような行動を取ってしまいます。

大人から見て問題行動に見えても、子どもなりの理由があるものです。たとえそれが独りよがりのものだったとしても頭から否定するのではなく、どうしてそれが独りよがりなのか、そうすることで相手はどういう気持ちになるのか、結果的に自分にどのように返ってくるのか、丁寧に説明しながら「子どもの気づき」を促すようにしています。

感謝の気持ちを持つこと

物質的に非常に満たされた現代社会において、「たくさんの恵みを受けている」という感覚が子どもたちから急速に失われつつあります。お母さんが朝ご飯を作ってくれるのも、幼稚園に送ってくれるのも、洗濯してくれるのも、一緒に寝てくれるのも、決して「当たり前」ではありません。いろんな人たちのおかげで私たちは今、暮らすことができるのです。そしてその元にはこの世の中を創造した「神」の恵みがあるのです。宗教をごり押しするつもりはありません。しかし、キリスト教を通して「今、この瞬間に生きていることは大きな恵みなんだ。すごく嬉しいことなんだ」と子どもたちに気づいてほしいのです。人は「当たり前」のことに感謝はできません。神様のおかげ、友達のおかげ、お父さん、お母さんのおかげなんだという「感謝の気持ち」を育てることで、それが思いやりになり、社会性を育てることにつながると考えています。

ルールの大切さを知り、守れるようになること

昨今、「うちの子は自由に伸び伸びと育てています」と言いながら、結局は「周囲を顧みず自分の意見だけを通そうとする利己的な子ども」にしてしまう例を耳にします。自由と放任はまったく違います。社会の中で自由に生きるためには当然守るべきルールがあります。それを無視すれば当然、その報いを受けなければなりません。ダダをこねてルールを無視しようとする子どもに「しょうがない」と折れてしまうのは、決して「優しさ」ではないのです。ルールを守らなければ、結局は自分にとって不利益になるということをしっかりと教えてあげることこそ本当の「優しさ」だと思います。

また、挨拶をしたり、人の目を見て話を聞いたり、困っている人に声を掛けたりというのは、ルールではありませんが、人間関係を円滑にする上で大切なことです。これらは口で説明してすぐに身につくものではありません。実際に先生が(時には先輩園児たちが!)良き手本となり、その姿を常に見せていくことで、少しずつ子どもたちにも覚えてもらっています。